2021-07-10

eBayで買った商品名に嘘があったので返品して返金してもらった

 eBayで災害用ラジオを買いました。

Bluetoothスピーカーとしても使いたかったので、商品名でBluetoothと入っているものを買いましたが、届いた商品はBluetooth機能のないものでした。

(同じ写真を使っている他の商品はBluetoothと書いてなかったので、薄々怪しいとは思っていましたが)

返品したところ、全額返金を受けられたので経緯を紹介します


5/19 購入(26ユーロ)

6/2 到着

6/3 返品リクエスト送信

6/4〜6/7 いろいろ交渉

6/10 返品のため国際発送

7/10 eBay運営に仲裁してもらい、全額返金


最初の購入から2ヶ月かかりました。


・返品リクエスト

eBayのシステムで返品をリクエストしました。

理由は商品説明の間違いなので、返送料も含めて返金が受けられると説明(自動返答)がありました。


・いろいろ交渉

返品リクエストをすると、大抵は返品用ラベルを送ってくるようなのですが、今回はそれが不可能だと言われました。

そこから交渉が始まりました。向こうはドイツ語でメッセージを送ってくるのですが、私は英語で返信しました。

店「返品手続きはとても時間がかかるので、その商品は返却しなくていいので、6ユーロ返金しますので手を打ってくれませんか」

私「Bluetoothがないのなら商品自体必要ないので、時間がかかってもいいから返品したい」

店「じゃあ10ユーロ」

私「そういう問題じゃないので、返品させてください」

店「じゃあ12ユーロ」

私「返品希望です」

店「返品先住所はこちらです。ただ、返品送料はそっち負担でよろしく」

ここまで3日間、スローテンポのやりとりでしたが、ようやく住所を送ってくれました。

送料こっちもちなのは納得いかないので、さらにメッセージを送ります

私「商品説明の間違いなので、返品送料もそちらの負担のはずです。eBay側もそう言ってます」


この後、返事はなくなりました。

中国の住所まで発送した荷物は、2週間ほどで相手の元へ到着しましたが、そこから1週間ほど待っても返事が来ません。


・7/10仲裁申し立て

eBayにはこのような場合の仲裁をしてくれるサービスがあり、返品商品が相手に到着してから一定期間が経った場合には仲裁を申し立てることができます。

申し立てたところ、5分以内に全額返金のお知らせが来ました。


・やべー間違えた
すっかり忘れてましたが、返品を発払いで発送してました。
それを忘れてCase Closeしてしまいました。
送料960円返金してもらいそびれました。やっちまった。


この件をeBayに泣き付いたのですが、
「今回は残念ながら助けられません。出品者と個別に交渉してください。
あと、次からは返送送料は支払わないでください。多くのケースでは、eBay側から出品者に、返送送料を支払うよう頼みますので」だそうです。
丁寧な返事をいただいて渋々納得しました。

勉強料960円でした。

それにしてもeBayのサポートは早いし的確。



eBayからの原文

I can see the Return case is closed now in your favor and would like to inform you that in this case you were not supposed to pay for the Return shipping, it was seller who was responsible for facilitating the return, but you voluntarily chose to pay for the return shipping and that is why we can't force seller to pay you the return shipping cost.

 

In this situation, you will have to communicate with seller and ask them to refund you the shipping cost.

 

In the future, in similar case don't pay for the Return shipping unless you are told to do so because most of the time we ask sellers to facilitate the return shipping.

2021-07-08

なんで勉強するの

「なんで勉強するの」─「将来役に立つから。」なんの役に立つのか。直接的に役に立つことは少ないんじゃないのか。─「いい大学に入れるから。」いい大学を出たら幸せの期待値が大きく向上する時代は終焉を迎えているのではないのか。いい大学に入ることと並行して、色々な活動をして種を撒いていかなければ幸せを得にくい世の中だとしたら、学校の勉強の意味はどれくらい強く伝えるべきことなのか。かといって、勉強以外にも大切なことがたくさんあると額面通りに伝えたら、勉強を蔑ろにするのではないのか。

 この答えを探るべく、私はこの頃「Yahoo!知恵袋」で子供たちの質問に答えている。算数、理科、社会。基本的には宿題がわからず、ただ答えを求めて質問をしている場合が圧倒的多数だ。答えを簡潔に書く回答者もいるし、そこはネットの世界なので、宿題をネットで質問する行為を否定したり、他の回答者をも非難する回答者も散見される。私は、質問者はなぜこの問題がわからないのか、この問題を理解できない背景には、勉強に対する考え方に迷いや悩みがあるのではないのか、という観点も想像しながら、質問した子供たちがその問題だけでなく、その教科のその単元全体を俯瞰で捉える助けとなれば良いという気持ちで回答を考えている。しかし質問者にその類の回答を響かせることは難しく、あまり反応は得られていない。

 そうした中で最近、「勉強とは、教科にかかわらず、世界を観察するためのツールである」ということを考えている。各教科の出自を辿れば、きっと生活のための知恵に行き着く。ひとり何粒の木の実を取れば何人が何日生きられるのかを考えたことが、算数の始まりかも知れないし、隣の村の人の発言を考察し実際には何を考えているかを考えることが国語の始まりかも知れない。理科や社会は直接的に世界を観察しているし、美術や体育はよりユニークな観察の方法を与えているのではないか。

 この考え方は、今まで教育の現場ではとっくに皆が考えていることかも知れない。このような観点に基づいた教育学の本はたくさんあるのかも知れない。ただ、今まで教育学には触れたことのなかった私だが、自分で得たひとつの考え方として、子供に対する回答の一つになりうるのではないかと思っている。


 自分の体験として、算数が得意だったことは数学に繋がり、そして物理や化学などとも絡み合いながら大学数学の世界を知り、今社会に出て、物事を順序立てて考えたり法則性を見出す際に考え方が役に立っていると感じることがある。現代の世の中はデータに溢れているし、そのデータを意図的に濫用して特定のメッセージを出しているケースにもよく直面するが、そのメッセージを受け入れるのかを判断する際には、数学的な捉え方は重要なスキルだと思う。私は自分では、十分にその判断ができていると思っている。これは、数学的に世界を観察する力を身につけることができたということではないか。

 国語はテストで点数を取るのは得意だったが、登場人物や作者の心情に心から共感するのは苦手だったし、抒情的な詩や文章を感情のままに表現することも苦手だった。そのまま大人になった今、共感力や表現力の分野では自分には足りないものがあると思っている。かつて教科としての国語に対して、点数を取ることを目標に取り組んでしまった弊害だと感じていて、もっと感情のおもむくままに国語の世界に触れてくれば、世界をもっと豊かに捉えられたのではないかと最近になって思う。ようやくこの頃、子供に恵まれたこともあり、ヒューマンドラマや小説などに共感できることが多くなってきた。今からでもその感性を養いたい。

 美術に関しては国語よりさらに後悔がある。芸術作品に詳しい知人は、世の中の風景をどのように捉えているのか。芸術作品を味わうことが得意な知人は、色や形を見たときに、どんなものとリンクさせて、どれくらい広い世界を感じているのか。想像するだけで羨ましいと思う。多感な時期にそういうものに触れることは、きっと世界を広げることなのだと、美術の分野では特に感じる。

 ここまで考えて、子供ならさらに質問をするだろう。「世界を観察することに意味はあるのか」。これは死生観の問題だと思う。人はなぜ生きているのか。生まれてから死ぬまではなんの意味があるのか。

 DEATHという本を読んだ。イエール大学の教授の授業をまとめたものだそうだ。理論構成が高圧的で読んでいてあまり気持ちの良い本ではなかったが、その本の中で気になった引用があった。「生命は起き上がった泥だ。その中でも人間は、世界を観察することのできる泥だ。この美しい世界を観察することができない、起き上がることもできない泥が多い中で、なんと幸せなことか。」正確ではないが、こんな内容だったと思う。たまたまこの時代に起き上がり、この世の中を見ているだけで、なんと幸せなんだろう。その考えに、とても共感したし、ある種の救いを感じた。そしてまた、人間の生きる意味は、「世界を観察すること」だと思った。

 この世界を、見ているだけでいいんだ。自分が何かすると、世界も少し変わるかも知れない。それを楽しみながら、ただこの世界を、できれば世界の美しい部分をたくさん、見ているだけでいいんだ。

 この考え方なら、子供も共感してくれるんじゃないか。そしてまた、子供にとって、なんらかの救いになることもあるんじゃないのか。そう考えた。その上で、世界を観察する方法をたくさん持っていれば、世界の美しい部分はたくさんたくさん見えてくるんだと、そこから勉強する意義を伝えていきたい。