「なんで勉強するの」─「将来役に立つから。」なんの役に立つのか。直接的に役に立つことは少ないんじゃないのか。─「いい大学に入れるから。」いい大学を出たら幸せの期待値が大きく向上する時代は終焉を迎えているのではないのか。いい大学に入ることと並行して、色々な活動をして種を撒いていかなければ幸せを得にくい世の中だとしたら、学校の勉強の意味はどれくらい強く伝えるべきことなのか。かといって、勉強以外にも大切なことがたくさんあると額面通りに伝えたら、勉強を蔑ろにするのではないのか。
この答えを探るべく、私はこの頃「Yahoo!知恵袋」で子供たちの質問に答えている。算数、理科、社会。基本的には宿題がわからず、ただ答えを求めて質問をしている場合が圧倒的多数だ。答えを簡潔に書く回答者もいるし、そこはネットの世界なので、宿題をネットで質問する行為を否定したり、他の回答者をも非難する回答者も散見される。私は、質問者はなぜこの問題がわからないのか、この問題を理解できない背景には、勉強に対する考え方に迷いや悩みがあるのではないのか、という観点も想像しながら、質問した子供たちがその問題だけでなく、その教科のその単元全体を俯瞰で捉える助けとなれば良いという気持ちで回答を考えている。しかし質問者にその類の回答を響かせることは難しく、あまり反応は得られていない。
そうした中で最近、「勉強とは、教科にかかわらず、世界を観察するためのツールである」ということを考えている。各教科の出自を辿れば、きっと生活のための知恵に行き着く。ひとり何粒の木の実を取れば何人が何日生きられるのかを考えたことが、算数の始まりかも知れないし、隣の村の人の発言を考察し実際には何を考えているかを考えることが国語の始まりかも知れない。理科や社会は直接的に世界を観察しているし、美術や体育はよりユニークな観察の方法を与えているのではないか。
この考え方は、今まで教育の現場ではとっくに皆が考えていることかも知れない。このような観点に基づいた教育学の本はたくさんあるのかも知れない。ただ、今まで教育学には触れたことのなかった私だが、自分で得たひとつの考え方として、子供に対する回答の一つになりうるのではないかと思っている。
自分の体験として、算数が得意だったことは数学に繋がり、そして物理や化学などとも絡み合いながら大学数学の世界を知り、今社会に出て、物事を順序立てて考えたり法則性を見出す際に考え方が役に立っていると感じることがある。現代の世の中はデータに溢れているし、そのデータを意図的に濫用して特定のメッセージを出しているケースにもよく直面するが、そのメッセージを受け入れるのかを判断する際には、数学的な捉え方は重要なスキルだと思う。私は自分では、十分にその判断ができていると思っている。これは、数学的に世界を観察する力を身につけることができたということではないか。
国語はテストで点数を取るのは得意だったが、登場人物や作者の心情に心から共感するのは苦手だったし、抒情的な詩や文章を感情のままに表現することも苦手だった。そのまま大人になった今、共感力や表現力の分野では自分には足りないものがあると思っている。かつて教科としての国語に対して、点数を取ることを目標に取り組んでしまった弊害だと感じていて、もっと感情のおもむくままに国語の世界に触れてくれば、世界をもっと豊かに捉えられたのではないかと最近になって思う。ようやくこの頃、子供に恵まれたこともあり、ヒューマンドラマや小説などに共感できることが多くなってきた。今からでもその感性を養いたい。
美術に関しては国語よりさらに後悔がある。芸術作品に詳しい知人は、世の中の風景をどのように捉えているのか。芸術作品を味わうことが得意な知人は、色や形を見たときに、どんなものとリンクさせて、どれくらい広い世界を感じているのか。想像するだけで羨ましいと思う。多感な時期にそういうものに触れることは、きっと世界を広げることなのだと、美術の分野では特に感じる。
ここまで考えて、子供ならさらに質問をするだろう。「世界を観察することに意味はあるのか」。これは死生観の問題だと思う。人はなぜ生きているのか。生まれてから死ぬまではなんの意味があるのか。
DEATHという本を読んだ。イエール大学の教授の授業をまとめたものだそうだ。理論構成が高圧的で読んでいてあまり気持ちの良い本ではなかったが、その本の中で気になった引用があった。「生命は起き上がった泥だ。その中でも人間は、世界を観察することのできる泥だ。この美しい世界を観察することができない、起き上がることもできない泥が多い中で、なんと幸せなことか。」正確ではないが、こんな内容だったと思う。たまたまこの時代に起き上がり、この世の中を見ているだけで、なんと幸せなんだろう。その考えに、とても共感したし、ある種の救いを感じた。そしてまた、人間の生きる意味は、「世界を観察すること」だと思った。
この世界を、見ているだけでいいんだ。自分が何かすると、世界も少し変わるかも知れない。それを楽しみながら、ただこの世界を、できれば世界の美しい部分をたくさん、見ているだけでいいんだ。
この考え方なら、子供も共感してくれるんじゃないか。そしてまた、子供にとって、なんらかの救いになることもあるんじゃないのか。そう考えた。その上で、世界を観察する方法をたくさん持っていれば、世界の美しい部分はたくさんたくさん見えてくるんだと、そこから勉強する意義を伝えていきたい。
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