子供と『ダンボ』を見た。1941年。もう85年前のアニメなのだけど、見ていて妙なところに目がいった。
柔らかい。
ダンボの身体が、とにかく柔らかい。
耳だけではない。頬も、お腹も、足も、鼻も。ちゃんと中に肉が詰まっている感じがする。
座れば潰れる。
走れば揺れる。
止まれば少し遅れて肉がついてくる。
触ったら柔らかそうなのだ。
最新のCGアニメは毛の一本一本まで見える。光は反射する。皮膚の下で光が散乱する。筋肉や脂肪までシミュレーションしているらしい。
なのに、ダンボのほうが柔らかい。
これはなんなんだろう。
調べてみると、当時のディズニーは、まさにこういうことを猛烈に研究していた時代だったらしい。
現実を正確に描く研究ではない。
どう描けば、人間の目に重く見えるのか。
どう動かせば、柔らかく見えるのか。
どう形を崩せば、生きているように見えるのか。
今では「スクワッシュ&ストレッチ」などと教科書になっている技術だけど、『ダンボ』を見ると、そんな用語に収まらないくらい徹底している。
身体は平気で変形する。
曲がらない方向に曲がるし、膨らむ。
でも、その嘘によって肉を感じる。
コンピューターが物理を計算しているわけではない。人間が、人間の知覚を計算している。
考えてみれば、ものすごく贅沢な時代だったのだと思う。
1937年『白雪姫』。
1940年『ピノキオ』と『ファンタジア』。
1941年『ダンボ』。
1942年『バンビ』。
まだ長編アニメーションというもの自体が新しかった。
だから、アニメーションとは何なのか。絵はどこまで動かせるのか。音楽を絵にするとどうなるのか。生命があるように見えるとはどういうことなのか。
そんな根本的なことを、世界最高峰の絵描きたちが、会社の金で延々と実験していた。
『ダンボ』の途中には、酒に酔ってピンクの象を見るシーンがある。4分間、物語は進まない。
前年には『ファンタジア』で長編一本丸ごと実験的なアニメーシャンを作っている。
今考えると、とんでもない。
技術が進歩すると、できることが増える。
普通はそう思う。
でも実際には、
「正確にできること」が増えすぎると、
「正確ではないけれど、人間にはそう感じること」
をやらなくなるのかもしれない。
これはちょっと怖い。
技術が未熟だったから、人間が考えなければならなかった。
人間が考えた結果、現実より現実らしいものができた。
その後、技術が発達して現実をかなり正確に再現できるようになった。
すると逆に、昔の嘘に到達できなくなった。
もちろん最近のアニメーションも、その袋小路には気づいているらしい。
『スパイダーバース』などは、CGなのにわざとフレームを落としたり、パースを壊したり、輪郭をずらしたりする。
コンピューターが正しく描いたものを、人間がまた壊している。
なんだか一周した感じがする。
ただ、『ダンボ』のあの肉の柔らかさは、まだあまり戻ってきていない気がする。
これはアニメーションだけの話ではない。
写真は、どんどん解像度が上がった。
音楽は、どんどんノイズがなくなった。
建築は、コンピューターで正確に計算できるようになった。
飛行機も、自動車も、家電も、あらゆるものが高度に最適化されている。
文章までAIがかなりきれいに、書き手の文体を真似て書くようになった。(この記事も。)
懐古趣味で昔のほうが良かったと言いたいわけではない。
今のほうがいいものは山ほどある。
ただ、進歩というのは、古い能力を全部持ったまま新しい能力が追加されていくものだと、なんとなく思っていた。
実際にはそうではないらしい。
何かを獲得すると、
使わなくなった能力が消えていく。
1941年のダンボを見ていると、技術の歴史というのは一直線ではなく、ところどころに、とんでもなく豊かな袋小路を残しながら進んでいるのかもしれない、
と思う。
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